Road to オーストラリア永住権⑮
かくしてクッカリーコース(シェフコース)が始まった。
最初の先生はアイルランド出身の人間で、正直アクセントがきつく言ってることが上手く理解出来ない事がちょくちょくあった。授業内容は実技がメインで基本キッチンで料理を一から覚えて行く感じであった。
これまで仕事が忙しかったせいもあり、普段家ではあまり凝ったものなどは作った記憶も無く、かつサッと作れるアジア系の物が多かったので、西洋料理はパスタくらいしか自分では作ったことがなかった。
ただこれからやるのはメインからパン・デザートなどまで西洋料理が中心で、中でも基本となるのがフレンチになる。料理用語で英語にフランス語が混じってくるので聞きなれない言葉も多く最初はとまどったので、学校が終わった後に復習をしたりした。
授業ではソース一つ作るにしてもストック(だし)から作るので骨と野菜を数時間煮込む事からやったりと、既製品を使わずに食材を一から扱うので面倒臭い事が多かった。ただ今までやったことが無かったり、知らない料理の裏側を学べる事が出来て楽しくもあった。
俺は永住権の為にとにかく単位を落とす事が一つも許されない、と気合いが入っていたので、金を節約しなければならなかった。しかし料理を勉強するために色んな食材を買い込んで、家のキッチンを使って学校で習った料理を復習し、シェアメイトや他の友達にふるまったりした。
一年間で覚える調理の幅は多岐に渡った。メインの肉や魚などを扱ったものは良いのだが、苦手なものもあった。自分が絶対に向かないだろうな、と確認したのがペイストリーシェフやパテシェである。
まずケーキやそれに付属するデコレーションやチョコレートの扱いが極端に苦手である。どちらかというと自分の感覚で少しの失敗を料理中に補えるメインディッシュとは違い、パンやデザートは少しレシピからはずれたり一度何か間違うと出来栄えは悲惨なものになった。ペイストリー系は根本的にセンスがなく苦痛の時間だった。
他に苦痛だったのは肉の解体や、その解体した普段あまり食べない内臓などの部位を使った料理。それもコースの一貫としてやらねばならないプロセスらしく、皆いやいややっていた。とにかく匂いもきつく衣服に着いたらしばらく取れないし、何より解体した牛の脳みそや心臓を調理して自分達で食べなきゃいけないのが苦痛極まりなかった。
何の罰ゲームか知らないが、いやがる俺達とは対照的に、嬉しそうに解体やゲテモノ料理を説明していくサイコパス系のイギリス人の老講師が気色悪くてしょうがなかった。
まさかとは思うがそいつはこうやってどこかで嬉しそうに人間も解体してるんじゃないかと、想像が膨らみ空恐ろしくなった。。 いや、そんな訳ないけど、、
まーそんなこんなで日々を過ごしていたが、このシェフのコースは学校に行くだけでなく、Vocational Placement という実地のトレーニングを規定の時間数をこなさなければならなかった。
学校から派遣されたホテルでその無休のインターンが終わる時に、当時の料理長にこのまま働かないか?と誘われ働く事になった。
しかし途中から経営側に中国系の企業が参戦すると大幅な人件費のカットが行われ、働く時間も減ったが自分が入る時は、キッチンを2人で160~300名までのバイキングを回さねばならず、さすがの無茶ブリに料理をしているというより、ただ延々ともぐら叩きでもしてるようかのバタバタしてるだけだった。
そして学校の方ではいよいよ一年の最終テストが迫っていた。これをパスすれば晴れてコース終了となるのだが、このテストは今までやってきた事の総集編というか、生徒一人一人がテスト期間中順番にヘッドシェフの役回りをやるのである。
その自分がヘッドシェフの役の時は自分で考えたオリジナルメニューのレシピを作り、それを他の生徒達に配り、前菜・メイン・デザートの各セクションでそれぞれ役割分担するのである。
学校のキッチンにはレストランが併設されているので、実際に客として地域の老人コミュニティーを中心に招待された人達からお金を取ってサービスするのである。俺が用意したメニューは基本和と洋をミックスした創作料理が中心で、大方無難な評価だったのだが、自信作だった抹茶どら焼きを西洋風にアレンジした奴は老人会には不評だった。
まーそれでも無事にそのテストにパスし晴れて一年間のシェフコースは終わり翌年のホスピタリティーコースへの進んでゆくのであった。
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